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I want to... Dream as if I'll live forever. Live as if I'll die today.
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こんにちは、お久しぶりです。風野湊です。
帰国まで一週間を切りました。
日本を出た時は、半年の旅行なんて途方も無く思ってましたが、
いざ通り過ぎてしまうと、本当にあっという間ですね。

旅行中に感じたことは、ブログに書くよりも詩の形の方がアウトプットしやすいので、
多分、これからも継続的に旅行記詩はUPしていくと思うのですが。
今日は、それとはまた別に。
まあ、たまには、一回くらい、良いよね、と、自己内省の垂れ流し記事を書きに来ました。
帰国前に書いておいた方が良い気がするので。
ちなみに内容は、先週辺りに一度Twitterで@null宛てに呟いたものの推敲版になります。

いやー、本当はこういうの、自分探してきました!!!っぽくてイヤなんですけどねー。
言語化しとかないと忘れた時に思い出せなくて不便ですから。
旅行中って結構暇な時間多いんですよ。特に夜とか。移動中とか。
多分、これから先しばらく、こんな考え事だけしてりゃ良い時間なんて無いんだろうなあ。


自分探し、って日本語、いつぐらいに生まれたんでしょうね。
長期の放浪系旅行と結びつくイメージが出来たのもいつぐらいなんでしょう。
本当の(もっと良い)自分、本当の(もっと良い)居場所、なんて、
そんなことを聞いてももう胡散臭さしか感じなくなってしまいましたが
自分が普段どんなことを考えていて、どんな思考の癖があって、
本当はこういうことを感じてたんじゃないかと自分の中を弄ってみるのは好きです。
感情の原因やコンプレックスの根元をぐりぐりしてみるのも楽しい。
人間の記憶なんて後からの意味づけで幾らでも捩れるのでちょっと危ないんですけどね。


完全に自分用の備忘録にしかなってませんが
興味のある方がいらっしゃいましたら、追記から、どうぞ。


 

 


どこから書こうかな。
時系列順の方が良いか。小説に関してはちょっと後回す。

さて。
本当に最近まで気が付いてさえいなかったのですが、どうやら私には、
「私はつまらない人間なんだ」というコンプレックスがあります。
多分、小学校高学年あたりから内面化されてました。

具体的に書くと、
冗談が通じず、共通する話題を持たず、流行に気づかず、
優等生(先生や大人に従順)で、生真面目で、ルールに違反出来ない、……Etc。
そんな自己イメージがあって、私は其処にコンプレックスを感じる一方で、
そのイメージから外れる行動も出来なくなってました。
別に、直接「つまらない」と罵られたことは無いはずなんですが。
いや、まあ、話づらいとか絡みづらいとかそういう間接的な指摘はありましたけども。

一番酷かったのが高校時代ですね。
当時は昼のホームルームに理由も分からない恐怖しか感じませんでしたし、
クラスメイトに話し掛けられるだけで萎縮していました。
私はつまらないのだ、私と話してもつまらないのだ、
それなのに話し掛けるなんて迷惑だ、一緒にいてはいけないのだ、
ああ会話を向けられてしまったつまらないって思われたらどうしよう駄目だ黙ろう――
とか、そんな感じのプレッシャーが無意識内で無限ループですよ。
友人でさえ、仲良くなり始めの時期はいつも話しかけるのが怖かったぐらいでした。
なんで友達顔で話しかけてくるんだろう迷惑だなぁなんて思われたらどうしようかと。
バリバリ被害妄想…いや加害妄想なんですけど、感情は理屈を聞いてくれない。

とはいえ、文藝部やオタク系の、共通する話題がある友人は割と大丈夫でした。
今、大学の居心地が最高なのも、普通に本の話をして良い環境だからだと思います。
最初は「受験乗り越えたから少しは心が強くなったのかな☆」なんて思ってたんですが、
バイト先(TDL)は対人関係惨敗だったので残念ながら駄目だったようです。←
自分から話し掛けても迷惑だよなぁ、黙って気配消しとこう、が標準思考だった為、
一年働いてましたが、一部の人としかスムーズに会話出来るようになりませんでした。
話し掛けて貰えればまだ大丈夫だったんですが。

ちなみに旅行中の現在でさえ、
「あー会話盛り上がってるなーあそこ日本人もいるなーよし隅っこで本読むか」
「クラブとかバーで夜通しはしゃぐ感覚が分からないっていうか私絶対浮くわ無理怖い」
「(宿泊者同士のプチパーティに誘われ)えっ…いや…英語喋れんし…遠慮します……」
「(一緒に街巡らないかと誘われ)(一緒に夕飯いかがと誘われ)いや、会話続けられる自信無いし気遣い疲れるので遠慮します……」
ご覧の有様です。
各国の旅行者が集まるホステルという、かなり友達作りしやすい環境を半年間通ってきたにも関わらず、社交的にはなれませんでした^q^
おかげさまで英語も全く喋れるようになりませんでした^q^
バックパッカーとしてはかなり浮いていることを自覚しております^q^

別に会話出来なくても友達作れなくても旅行は出来てしまうのだよ……


と、まあ、こんな感じで、
「私ってつまらない人間なんだよなぁ」幻想に現在まで絶賛縛られ中な私にとって、
文章は、文章だけが、
唯一人から「面白い」と言ってもらえる(と思える)ものだったのです。
前置きが長くなりましたが、私が小説に固執していた一番の理由は多分これです。

もともと本を読むのもお話の続きを考えるのも好きな子どもでしたが、
中学時代、ネットに投稿した拙い台詞小説を面白いと言ってもらえた時から、
多分、取り憑かれてしまったんだと思います。
もちろん、最初は、ただ楽しくて書き始めました。楽しさの為だけに書いていました。
でも、面白いと言われること、人から求められること、感想を贈られること、
そんな現実では得られなかった(得られたとしても自己イメージに合わないから謙遜して忘れてしまうしかない)評価を体験したら、もう、戻れないですよ。
私はつまらないけれど私の書く小説はつまらなくないかもしれない、と、
もう、そこから、楽しさ半分自己肯定手段半分になるのなんてあっという間です。

小説に比べ、絵や詩にあまり執着しなかったのも、
(文章だけでリソースいっぱいいっぱいだったこともありますが)
「面白い」って一番言ってもらえたのが小説だったからという理由もある気がします。
詩で人に何か評価してもらおうとか求めてもらおうとか思ったことないですし。

で、最終的に、楽しさよりも自己肯定の為になってしまって、
迷走して、自滅したのが去年の春です。
高校までは文藝部を通して一定のリアクションがあったから良かったんですが、
大学に入ってサイト一本に集中したら見事に潰れました。
こんなに頑張って書いたのにどうして誰も面白いと言ってくれないんだ、やはり私の文章なんてつまらないのか、努力が足りないのか、もっと頑張ればいいのか、どこまで書けば良いのか、
私にはもう自分の文章の何処がつまらなくて何処が面白いのか全く分からなかった。
書いていて、それでも楽しさを感じることは勿論ありましたが、苦痛の方が多かった。
最後の方は、もう自分自身の小説に面白さを殆ど見出せず、
せっかく人から面白かったですよと言ってもらっても、何がだ何処がだお世辞だ、としか思えなくなってるレベルでしたね。痛いですね。


今、時間を置いて読み返してみると、うん、まあ、実際、駄目です。面白くないです。
どう魅せたいのか、が頭から吹っ飛んで、私がとにかく未熟で努力が足りないから求めてもらえないんだ面白いって言ってもらえないんダーッと熱暴走していた為、書き込み過多の構成大崩壊です。書きゃあ良いってもんじゃなかったのよ…おばかさん……。

とはいえ、あの時は、そんな考え思いつきもしなければ許容も出来ませんでした。
もっと気楽に楽しんで書きなよ、なんてアドバイスされようものならコイツ殴ってやろうかと思うくらいムカつきましたし。
楽しさだけで書ける範疇にはとっくに戻れなくなってることを分かってて、
でも認めたくなくて、なのに分かってもらえないことが腹立たしかったんでしょうね。
作家にでもなるのかと問われれば気まずかったのも、
多分、自分の創作動機が不純だと薄々気付いてたからだと思います。
実際、今でも、作家にでもなるつもりなのかと問われたら答えられません。
書くことは好きです。どうせなら本気の方が楽しいです。
でも私はそこまで強くない。ただ、そう思うことが何処か悔しいのも事実。


あの頃、ときどき、逃げるように、面白いかどうかも他者の存在も全力でシカトして、
突発的な自己満足小説を書くことがありました。
その時だけは楽しかった。面白いという声を求めて書いたら潰れた。
当時はそれが全く分かってなかった。

本当は、面白い、なんて、酷く主観的な基準で、
そんなの最初から自分で決めれば良かったんです。
他者に決めさせてはいけなかった。
まず最初に自分で決めて、それから改めて他者の価値観と触れさせれば良かったのに、
私の面白いと他者の面白いがイコールのはずはないのに、完璧に前提が飛んでいました。
誰かに面白いと言ってもらえるものが面白いものなのだと思っていた。
客観こそが絶対で、食い違う主観が存在しても良いのだなんて思えなかった。
客観だって殆どは誰かにとっての主観に過ぎないというのに。

馬鹿だよなぁ。でも仕方ないよなぁ。
つまらなくないよ面白いよって求めてもらいたくて、そしたら文章書くしか方法知らなくて、
文章さえ求めてもらえれば、
他の性格的な部分や現実の対人関係は切なくても平気だったんだもんなぁ。
そりゃ潰れますよ。そこまで依存したら。どう頑張ったって。


私は主観というものが未だに弱いです。
面白い、つまらない、好き、嫌い、可愛い、かっこいい、気持ち悪い、などなど、
色々ありますが、油断するとすぐに誰かの主観に流されて上書きしてしまいます。
例外は外見の主観ですね。
小学生あたりから、「駄目だ未知の世界だ付いていけない」と合わせることを投げていたせいか、
流行に疎い代わりにあまりコンプレックスもありません。(どうでも良いとも言う。
いやまあ、お洒落はコミュニケーションの手段だと頭で分かっちゃいるんですけども…。

というか、今回、「なんだって私は、私の書いた小説が『面白い』かどうか、人からの評価がないと決められないんだろう」と思い立てたのも、
「だって私、自分の外見が『良い』かどうか、とか、人の意見や評価なんて全く気にしてない(←」という前提があったからなんですよね……書いてみるとちょっと切ないな…^q^
あ、いや、「それに、自分が読む小説が面白いかどうかは、他者の意見とか全く関係なく決められるぞ」というヒントもありましたよ!ちゃんと!
客観と主観なんて混同する訳ないと思ってましたが油断するとしちゃうもんなんですね。

「私はつまらない人間だ」という自己イメージだって、
多分、最初は、たまたま誰かにとって私がつまらないことしか言えなかったのを、
自分の主観として引き受けてしまって、離れられなくなってしまったんだと思います。
もう何年も無意識に思い続けてきたものですから、そんなパッと断ち切れるものでもなく。
こんな風に思ってしまう癖がある、その反動で文章に自己肯定を求めてしまう癖がある、
とりあえず、今は、それが分かっただけでも、まだ良かったかなと思います。
分かったからって、そんなすぐ変えられるもんじゃあないですが、
(突然人と会話しまくれるようになるとか弾けられるようになるとか無理です^q^)
とはいえ少しずつ…なんとか……調整を……意識したい……。


主観を主張しないこと、人に合わせること、怒らないこと、共感できることが優しさで、
自分の長所だと思ってる節が何処かにありました。前から。
いい加減、自分の主観をちゃんと持った上で人と関係を作れるようになりたいのです。
面白いものは面白いと、つまらないものはつまらないと言えるようになりたい。
私がつまらないかどうかだって、話す相手によって変わり得るものだし、
私自身の主観を、他者のそれとは分けて、決められるようになりたい。

多分、文章だけに留まらず、私の対人関係の大半には、
私の主観の頼りなさが多かれ少なかれ影を落としています。
中学でも高校でも大学でもバイト先でもネット上でも旅行先でも。
もちろん、私の様々な欠点や対人関係の難しさを、
「私の主観が弱いから」だけで完結させることは出来ません。他にも色々あるでしょう。
でも多分、割と大きめな原因として、ある。


…ちょっと話を膨らませすぎましたかね。今回はそろそろ終わりにしましょうか。
人はみんな、自分がどういう人間かというイメージや物語に沿って生きると言いますが、
その物語を他者だけに書かせっぱなしにするのではなく、
自分でもちゃんと書き足してかなきゃ勿体無いですよね。
今回の話を三行でまとめるとこんな感じ。

Twitterでも書きましたが。
屈折の理由が分かったのだから、少しずつ、
文章を自己肯定手段から開放して書けるようになっていけたら良いなと思います。
いや、文章という自己肯定手段に頼らずとも自分を安定運転できるようになりたい、かな。
そしたらまた純粋に書けるようにならないかなあ。無理かなあ。甘いかなあ。
書くの好きなんだよ、やっぱり。潰れたままじゃ悲しい。
また潰れたらと思うと書くの怖いし、自分の小説の面白さも目標も探している途中ですが。

おやすみなさい。
読んでくれてありがとう。
 
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